「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。」(イザヤ19:22)
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今回は、旧約聖書のイザヤ書から5回目のメッセージです。先週からはイザヤ書の第二部にあたる諸外国への宣告について学び始めています。この宣告は13章から23章にかけて書かれています。その最初はバビロンに対してのものでした。簡単に振り返ります。バビロンへの宣告の中心的な言葉の一つは、14章4-6節に書かれています。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて、支配したのだが。」と。バビロンが主によって打ち滅ぼされたのは、彼らが、他の民をしいたげ、横暴に振る舞い、民を打ち、悪者であり、そのような支配者であったからであることが言及されています。この宣告を通して、時にかなった神の裁きが高慢な民の上に臨むことがわかります。今回はエジプトに向けて語られている宣告を選びました。それは興味深いものであり、エジプトに向けての宣告は、裁きだけではなく、悔い改めの勧めも書かれているからです。(参照19:22)。神は歴史をご覧になり、神の定めた時に、高慢な民を裁かれる、それだけではなく悔い改める者には回復の道をも備えておられる。そのような視点を私たち信仰者は持って行きたいと願っています。それでは、19章を読んでみてください。
19章1-15節には、エジプトの滅亡のメッセージが書かれています。いつわりの神々を礼拝する民が、内乱によって滅ぼされて行く様子が預言されています。そのような中で、民の多くは、3節にあるように、偽りの神々、霊媒や口寄せに伺いを立てると書かれています。内乱により、民は心の支えを失い、国が滅んでいく。それは、神の裁きの一面でもあるのです。教会でも私たちの社会でも同じなのではと私は思います。互いに尊敬や信頼を失って行く時に共同体としての力が弱くなり、その使命を果たせなくなるものです。4節には、エジプトはきびしい主人、力ある王によって治められるようになると書かれています。歴史を見ますと、イザヤの時代以降、エジプトはペルシャ、ギリシャ、そしてローマの支配下に置かれることになります。聖書の預言の成就を私たちは見ることができると思います。
11節には、「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも。」と書かれています。かつてエジプトの首都であったこの町の首長たち、また政治家たちの愚かさが指摘されています。ちょうど兄たちに奴隷として売られたヨセフの政治を目撃した者たちや、また、出エジプトの出来事を体験した者たちは、そこから何も学ばなかったのかとの思いが隠れているように思います。皆さん、エジプトも聖書の出来事の舞台であったのです。神様はユダヤの民だけではなく、エジプトの民にも語りかけておられたのです。
16-25節までには、その日との書き出しが何度も見られます。その日とは、救いと裁きが明らかになる日のことを言っています。16、17節には、「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げた御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。・・」と書かれています。恐れおののく。神の厳しい裁きがあるゆえに、エジプトに神への恐れが生まれる。また、悔い改める者が起こってきて、ユダに対する恐れが生じて行く。そうイザヤは語ります。まず神が選ばれたユダの地に回復が起こってきます。その回復の姿を見たエジプト人の中に神への、また神の民であるユダへの恐れが起こる。そうイザヤは預言します。終末の出来事のように理解されますが、エジプトの地に、主への祭壇が建てられ、救い主が送られ(20)、主への礼拝が起こってくる(21)とイザヤは預言しています。ここでカギとなる言葉はその日の理解です。救いと裁きの日であると説明しましたが、その日は救い主イエスの来臨と再臨の日とに関係していると理解できると私は思います。イエスはベツレヘムで生まれ、その後エジプトに下りました。イエスは弟子たちを育て、十字架で死に、人類の罪のための贖いの業を完成しました。後にマルコがエジプトで伝道し、エジプトには多くの教会が設立されました。今ではエジプトには約1割のクリスチャンがいると言われています。イエスが来られて教会が生まれ、エジプトにも福音が届けられたのです。もう一度イエスは戻って来られて、この地に絶対的な平和をもたらしてくださるのです。イザヤはイエスが戻ってこられる終末の日もその日として理解していたようです。22節には、「主はエジプト人を打ち、打っていやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」とあります。エジプト人も主に立ち返り、主が彼らを癒される日がいつか来るのです。23節には、「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。」と書かれています。皆さん想像して見てください。今のイスラエルはアラブの民に囲まれています。宗教も違います。争いが絶えません。しかし、救い主が再臨されることで、世界的な救いが与えられ、悔い改めが起こり、絶対的な平和がこの地にも与えられていくとイザヤは預言しています。
聖書の預言は私たちの理解を超えます。しかし、光として生まれる一人のみどりごが絶えることのない王国をつくり上げてくださる。参照イザヤ9:6-7。その方はいつか、中東だけではなく、全世界に平和をもたらしてくださる。そのような信仰を私たちの救い主イエスに対して持っていこうではありませんか。
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19章1-15節には、エジプトの滅亡のメッセージが書かれています。いつわりの神々を礼拝する民が、内乱によって滅ぼされて行く様子が預言されています。そのような中で、民の多くは、3節にあるように、偽りの神々、霊媒や口寄せに伺いを立てると書かれています。内乱により、民は心の支えを失い、国が滅んでいく。それは、神の裁きの一面でもあるのです。教会でも私たちの社会でも同じなのではと私は思います。互いに尊敬や信頼を失って行く時に共同体としての力が弱くなり、その使命を果たせなくなるものです。4節には、エジプトはきびしい主人、力ある王によって治められるようになると書かれています。歴史を見ますと、イザヤの時代以降、エジプトはペルシャ、ギリシャ、そしてローマの支配下に置かれることになります。聖書の預言の成就を私たちは見ることができると思います。
11節には、「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも。」と書かれています。かつてエジプトの首都であったこの町の首長たち、また政治家たちの愚かさが指摘されています。ちょうど兄たちに奴隷として売られたヨセフの政治を目撃した者たちや、また、出エジプトの出来事を体験した者たちは、そこから何も学ばなかったのかとの思いが隠れているように思います。皆さん、エジプトも聖書の出来事の舞台であったのです。神様はユダヤの民だけではなく、エジプトの民にも語りかけておられたのです。
16-25節までには、その日との書き出しが何度も見られます。その日とは、救いと裁きが明らかになる日のことを言っています。16、17節には、「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げた御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。・・」と書かれています。恐れおののく。神の厳しい裁きがあるゆえに、エジプトに神への恐れが生まれる。また、悔い改める者が起こってきて、ユダに対する恐れが生じて行く。そうイザヤは語ります。まず神が選ばれたユダの地に回復が起こってきます。その回復の姿を見たエジプト人の中に神への、また神の民であるユダへの恐れが起こる。そうイザヤは預言します。終末の出来事のように理解されますが、エジプトの地に、主への祭壇が建てられ、救い主が送られ(20)、主への礼拝が起こってくる(21)とイザヤは預言しています。ここでカギとなる言葉はその日の理解です。救いと裁きの日であると説明しましたが、その日は救い主イエスの来臨と再臨の日とに関係していると理解できると私は思います。イエスはベツレヘムで生まれ、その後エジプトに下りました。イエスは弟子たちを育て、十字架で死に、人類の罪のための贖いの業を完成しました。後にマルコがエジプトで伝道し、エジプトには多くの教会が設立されました。今ではエジプトには約1割のクリスチャンがいると言われています。イエスが来られて教会が生まれ、エジプトにも福音が届けられたのです。もう一度イエスは戻って来られて、この地に絶対的な平和をもたらしてくださるのです。イザヤはイエスが戻ってこられる終末の日もその日として理解していたようです。22節には、「主はエジプト人を打ち、打っていやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」とあります。エジプト人も主に立ち返り、主が彼らを癒される日がいつか来るのです。23節には、「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。」と書かれています。皆さん想像して見てください。今のイスラエルはアラブの民に囲まれています。宗教も違います。争いが絶えません。しかし、救い主が再臨されることで、世界的な救いが与えられ、悔い改めが起こり、絶対的な平和がこの地にも与えられていくとイザヤは預言しています。
聖書の預言は私たちの理解を超えます。しかし、光として生まれる一人のみどりごが絶えることのない王国をつくり上げてくださる。参照イザヤ9:6-7。その方はいつか、中東だけではなく、全世界に平和をもたらしてくださる。そのような信仰を私たちの救い主イエスに対して持っていこうではありませんか。
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