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「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56:7)

26:35
 
Kongsi
 

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今回は、旧約聖書のイザヤ書から14回目のメッセージです。前回私は、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(イザヤ55:1)とのテーマで語りました。イザヤは、53章でイエスの十字架での罪の贖いの業を、54章では、回復の業が始まることを、そして、55章では、渇いている者はみな、水を求めて出て来いと、神が備えておられる救いを受け入れるように、さらに私たち信仰者に神ご自身を求めて生きるようにチャレンジしています。ところで、56章からは、第6部に入ります。救い主イエスの働きを預言した5部に続いて、第6部では、新しくなった民に向かって新しい礼拝に入るようにと語りかけます。新しい礼拝への招きは、イスラエルの民だけのものではありません。全世界の民に向かって語られています。その招きに応答して、礼拝と祈りの祝福に預かって行きたいと思います。それでは、56章を読んでみてください。
1節に、主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」と書かれています。私たち信仰者は、救い主イエスがもう一度戻って来られるのを待ち望んでいます。その日はますます近くなっています。そうであるならば、私たちは、自分の行ないに気を配るべきです。神に喜ばれる生き方ができるように。ここでは、公正を守り、正義を行なえとチャレンジしています。公正と裁きとは同意語です。裁きには公正が必要であることは明白です。それでは、旧約聖書の裁きの基準はなんでしょうか。それは、律法であり、その中心はモーセの十戒であると思います。出エジプト20章にモーセの十戒が書かれています。第1から第4までの戒めは、神に関する戒めであり、第5から第10までの戒めは人に関する戒めです。出エジプト20章1~17節をぜひ読んでみてください。イエスは、この戒めに言及して、律法の中で大切な戒めとして、第一に神を愛すること、第二に自分を愛するように隣人を愛することであると表現しています。参照マタイ22:37-40。主が来られるその日が近づいています。その思いを強くする者は、このイエスの戒めに心を配り、ますます自分たちの生活にこの戒めを活かす者でありたいと願います。そして、神に関する戒めの中から、イザヤは安息日を守ることの大切さに言及していきます。2節では、「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にも手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」とあります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出20:8)とは、第4の戒めです。1週間の7日目は主の安息であり、この安息日を主は祝福し、聖なるものと宣言されました(出20:11)。安息日を守る、それは今でも私たちの礼拝の一部です。私たちは、礼拝のなかで神のなさった創造の業を覚えて感謝します。全てを創造された方が、今の私の生活や仕事など、あらゆる面で支え、守ってくださっていることを覚え、感謝します。安息日とは、本来イスラエルの民が、神の創造と、出エジプトにおける神の驚くべき御業を覚えるために定められたものです。最低でも1週間に一度、神が与えてくださった救いの業を覚え、心も体も神の安息の中でリフレッシュして行く、これが神の意図した安息の姿であると思います。このような安息は、イスラエルの民だけではなく、現代のクリスチャンの歩みにおいても大切なものであると思うのです。
3節には、主に連なる外国人や宦官との言葉が出てきます。ここでの外国人とは異教の世界から神を信じるようになった異邦人のことです。宦官とは、宮仕えのために肉体的に去勢手術を受けた人であり、主の集会に出ることが禁じられていた人たちです。参照申命記23:1。この人たちも主の礼拝に招かれてまいります。礼拝を通して、この世で得られる祝福以上の祝福を、この人たちは与えられて行きます。4と5節には、「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」と書かれています。絶えることのない永遠の名を与えるとは、天国の祝福が与えられて行くとの約束です。礼拝を通して、彼らは天国の祝福に預かって行くのです。
6-8節には、新しい礼拝は全世界の信仰者に向かって開かれている様子が表現されています。6節には、私たちのような異邦人であっても、主に連なる、主に仕える、主の名を愛する、安息日を守る、主の契約を堅く保つなら、との表現で、特別な祝福に預かって行くとの約束が書かれています。その約束は7節でこのように表現されています。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」と。わたしの聖なる山とは、本来シオンの山のことであり、祈りの家とは神殿のことを指す言葉です。ソロモン王の神殿完成の時の祈りがその背景にあります。第一列王記8:41-43節で、ソロモン王は外国人も含めて、その神殿で神に祈る祈りを聞いてくださるように神に祈っています。その祈りが実現することが背景にあります。しかし、それ以上の約束や、喜びが7節には含まれています。わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。それらの表現に目を注いで行きたいです。イエスが宮きよめをしたときに引用した聖句が「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(マタイ21:13)でありましたが、イエスは、この約束を実現するためにも十字架に着いてくださったのです。聖霊が注がれて、教会が生まれ、新たな祈りの家が世界中に拡大しています。世界に散らされたイスラエルの民だけではなく、外国人も宦官も含めて、新しい祈りの家が誕生することになります。
教会を通して新しい祈りの家が世界中に広がっています。私たちの教会もその中の一つです。私たちは神のみこころを求める信仰者の群れです。安息日を喜び、新約の恵みに感謝し、祈りの生活を喜びとしていこうではありませんか。主に連なり、主に仕え、主の名を愛する者として歩んでまいりましょう。
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1節に、主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」と書かれています。私たち信仰者は、救い主イエスがもう一度戻って来られるのを待ち望んでいます。その日はますます近くなっています。そうであるならば、私たちは、自分の行ないに気を配るべきです。神に喜ばれる生き方ができるように。ここでは、公正を守り、正義を行なえとチャレンジしています。公正と裁きとは同意語です。裁きには公正が必要であることは明白です。それでは、旧約聖書の裁きの基準はなんでしょうか。それは、律法であり、その中心はモーセの十戒であると思います。出エジプト20章にモーセの十戒が書かれています。第1から第4までの戒めは、神に関する戒めであり、第5から第10までの戒めは人に関する戒めです。出エジプト20章1~17節をぜひ読んでみてください。イエスは、この戒めに言及して、律法の中で大切な戒めとして、第一に神を愛すること、第二に自分を愛するように隣人を愛することであると表現しています。参照マタイ22:37-40。主が来られるその日が近づいています。その思いを強くする者は、このイエスの戒めに心を配り、ますます自分たちの生活にこの戒めを活かす者でありたいと願います。そして、神に関する戒めの中から、イザヤは安息日を守ることの大切さに言及していきます。2節では、「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にも手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」とあります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出20:8)とは、第4の戒めです。1週間の7日目は主の安息であり、この安息日を主は祝福し、聖なるものと宣言されました(出20:11)。安息日を守る、それは今でも私たちの礼拝の一部です。私たちは、礼拝のなかで神のなさった創造の業を覚えて感謝します。全てを創造された方が、今の私の生活や仕事など、あらゆる面で支え、守ってくださっていることを覚え、感謝します。安息日とは、本来イスラエルの民が、神の創造と、出エジプトにおける神の驚くべき御業を覚えるために定められたものです。最低でも1週間に一度、神が与えてくださった救いの業を覚え、心も体も神の安息の中でリフレッシュして行く、これが神の意図した安息の姿であると思います。このような安息は、イスラエルの民だけではなく、現代のクリスチャンの歩みにおいても大切なものであると思うのです。
3節には、主に連なる外国人や宦官との言葉が出てきます。ここでの外国人とは異教の世界から神を信じるようになった異邦人のことです。宦官とは、宮仕えのために肉体的に去勢手術を受けた人であり、主の集会に出ることが禁じられていた人たちです。参照申命記23:1。この人たちも主の礼拝に招かれてまいります。礼拝を通して、この世で得られる祝福以上の祝福を、この人たちは与えられて行きます。4と5節には、「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」と書かれています。絶えることのない永遠の名を与えるとは、天国の祝福が与えられて行くとの約束です。礼拝を通して、彼らは天国の祝福に預かって行くのです。
6-8節には、新しい礼拝は全世界の信仰者に向かって開かれている様子が表現されています。6節には、私たちのような異邦人であっても、主に連なる、主に仕える、主の名を愛する、安息日を守る、主の契約を堅く保つなら、との表現で、特別な祝福に預かって行くとの約束が書かれています。その約束は7節でこのように表現されています。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」と。わたしの聖なる山とは、本来シオンの山のことであり、祈りの家とは神殿のことを指す言葉です。ソロモン王の神殿完成の時の祈りがその背景にあります。第一列王記8:41-43節で、ソロモン王は外国人も含めて、その神殿で神に祈る祈りを聞いてくださるように神に祈っています。その祈りが実現することが背景にあります。しかし、それ以上の約束や、喜びが7節には含まれています。わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。それらの表現に目を注いで行きたいです。イエスが宮きよめをしたときに引用した聖句が「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(マタイ21:13)でありましたが、イエスは、この約束を実現するためにも十字架に着いてくださったのです。聖霊が注がれて、教会が生まれ、新たな祈りの家が世界中に拡大しています。世界に散らされたイスラエルの民だけではなく、外国人も宦官も含めて、新しい祈りの家が誕生することになります。
教会を通して新しい祈りの家が世界中に広がっています。私たちの教会もその中の一つです。私たちは神のみこころを求める信仰者の群れです。安息日を喜び、新約の恵みに感謝し、祈りの生活を喜びとしていこうではありませんか。主に連なり、主に仕え、主の名を愛する者として歩んでまいりましょう。
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