平和をつくる人になろう
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今回は、「平和をつくる人になろう」(ヤコブ3:18)からのメッセージです。前回は「行ないのない信仰はむなしい。」(ヤコブ2:20)とのテーマでメッセージを語りました。特に、アブラハムの信仰から信仰と行ないは常に共に進むものであり、行ないのない信仰がむなしく、死んだものではとの指摘を受けました。今日は、行いに視点を置きながら、私たちの言葉に気をつけること、そして平和を造る人になるとのチャレンジを受けたいと願っています。それでは、ヤコブの手紙3章1-18節を読んでみてください。
3章1節では、「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と書かれています。教師は、人を教える立場にあり、言葉を大切にする職業です。優れた判断力を必要とします。前回は、1章19節から、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」とのヤコブの言葉を取り上げました。続く26節では、自分の語ることを制御できない者は自分を欺いているとあります。言葉の持つ力をヤコブは1章から指摘しています。教師になろうとする者は、自分の言葉を制御できる者でなければいけません。3章では、言葉の持つ力に焦点を当てています。言葉は行いである、そのように指摘しているように思われます。そして、言葉を制御できる信仰者になるようにチャレンジしています。イエスもマタイ12章37節で、「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」と語っています。3章2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体をりっぱに制御できる完全な人です。」と書かれています。完全な人とは、よくバランスの取れた人であり、霊的にも、道徳的にも十分に成熟した者のことを言います。
成熟した者は、言葉の持つ肯定的な面と否定的な面をよく理解しています。言葉を舌として表現し、舌は体全体を動かす力を持つことを最初に指摘します。舟のかじのように大きな船を動かすことができるのです。しかし、否定的な面は本当に悲劇的な力を持つことです。言葉の力は、大きな森を燃やす、人生を台無しにする、死の毒を持つ、など、恐ろしい力を持つことを指摘しています。行いのない信仰はむなしいと前回学びましたが、ことばは行ないであり、信仰者にふさわしいことばを伴わない信仰はむなしいものです。3章9、10節には、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことは、あってはなりません。」と書かれています。人は神の形に造られたものであることを覚えておられますか。神様ご自身が、人の創造を見て、非常に良かった(創世記1:31)と語られています。神がよいと言われた者をのろうことは大きな罪であることに気づいてください。
3章13節で、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。」と書かれています。知恵のある、賢い人との表現でヤコブは教師のことを再度言及しています。教師の資格は、柔和な行ないを、良い生き方によって示すことができるかで明らかになると述べています。良い生き方を、17節で、上からの知恵を求める生き方であり、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」と表現しています。純真とは、ねたみや敵対心から解放されて純粋な生き方をすることを現す言葉です。平和、寛容、温順との言葉で、キリストに出会い、キリストの徳を自分の人生に生かして生きる者の歩みを表していると思います。さらに、あわれみと良い実との言葉で、他人の悲しみや苦しみに共感できる生き方を表しています。えこひいきがなくとは、人を差別しない生き方です。そのように生きる者こそ教師たる者の歩みですとの思いが隠れているようです。
18節には、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」と書かれています。今までヤコブは、信仰は行ないによって示さなければならないことを語ってきました。種が実を結ぶ、それは信仰が行ないによって明らかになることでもあります。平和をつくる人は種を蒔く人です。ユダヤの社会では、親は子供をラビ(教師)にすることが大きな夢の一つであったようです。私たちもイエスに出会い、罪を悔い改め、人生が変えられて新しい生き方をスタートしたのです。使徒行伝13章1節には、アンテオケの教会には何人かの教師が与えられていた様子が書かれています。神様は教会に必要な働き人をいつでも起こしてくださいます。イエスに出会い、人生が変えられて、和解の務めをになって生きるようになる者がどの時代にも起こされているのです。ヤコブは教師になろうとする者に、鋭い警告を与えていますが、教師になることを否定してはいません。ヤコブも教師の一人であったことを忘れてはいけないと思います。神はあなたを、平和をつくる人に、また義の実を結ばせる種を蒔く人にならせようとされているかもしれません。言葉に気を付けて、上からの知恵を求めて、生きてみようではありませんか。イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とマタイ5章9節で語っておられます。神の子ども呼ばれる特権に預かってみたいと願っています。
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3章1節では、「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と書かれています。教師は、人を教える立場にあり、言葉を大切にする職業です。優れた判断力を必要とします。前回は、1章19節から、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」とのヤコブの言葉を取り上げました。続く26節では、自分の語ることを制御できない者は自分を欺いているとあります。言葉の持つ力をヤコブは1章から指摘しています。教師になろうとする者は、自分の言葉を制御できる者でなければいけません。3章では、言葉の持つ力に焦点を当てています。言葉は行いである、そのように指摘しているように思われます。そして、言葉を制御できる信仰者になるようにチャレンジしています。イエスもマタイ12章37節で、「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」と語っています。3章2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体をりっぱに制御できる完全な人です。」と書かれています。完全な人とは、よくバランスの取れた人であり、霊的にも、道徳的にも十分に成熟した者のことを言います。
成熟した者は、言葉の持つ肯定的な面と否定的な面をよく理解しています。言葉を舌として表現し、舌は体全体を動かす力を持つことを最初に指摘します。舟のかじのように大きな船を動かすことができるのです。しかし、否定的な面は本当に悲劇的な力を持つことです。言葉の力は、大きな森を燃やす、人生を台無しにする、死の毒を持つ、など、恐ろしい力を持つことを指摘しています。行いのない信仰はむなしいと前回学びましたが、ことばは行ないであり、信仰者にふさわしいことばを伴わない信仰はむなしいものです。3章9、10節には、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことは、あってはなりません。」と書かれています。人は神の形に造られたものであることを覚えておられますか。神様ご自身が、人の創造を見て、非常に良かった(創世記1:31)と語られています。神がよいと言われた者をのろうことは大きな罪であることに気づいてください。
3章13節で、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。」と書かれています。知恵のある、賢い人との表現でヤコブは教師のことを再度言及しています。教師の資格は、柔和な行ないを、良い生き方によって示すことができるかで明らかになると述べています。良い生き方を、17節で、上からの知恵を求める生き方であり、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」と表現しています。純真とは、ねたみや敵対心から解放されて純粋な生き方をすることを現す言葉です。平和、寛容、温順との言葉で、キリストに出会い、キリストの徳を自分の人生に生かして生きる者の歩みを表していると思います。さらに、あわれみと良い実との言葉で、他人の悲しみや苦しみに共感できる生き方を表しています。えこひいきがなくとは、人を差別しない生き方です。そのように生きる者こそ教師たる者の歩みですとの思いが隠れているようです。
18節には、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」と書かれています。今までヤコブは、信仰は行ないによって示さなければならないことを語ってきました。種が実を結ぶ、それは信仰が行ないによって明らかになることでもあります。平和をつくる人は種を蒔く人です。ユダヤの社会では、親は子供をラビ(教師)にすることが大きな夢の一つであったようです。私たちもイエスに出会い、罪を悔い改め、人生が変えられて新しい生き方をスタートしたのです。使徒行伝13章1節には、アンテオケの教会には何人かの教師が与えられていた様子が書かれています。神様は教会に必要な働き人をいつでも起こしてくださいます。イエスに出会い、人生が変えられて、和解の務めをになって生きるようになる者がどの時代にも起こされているのです。ヤコブは教師になろうとする者に、鋭い警告を与えていますが、教師になることを否定してはいません。ヤコブも教師の一人であったことを忘れてはいけないと思います。神はあなたを、平和をつくる人に、また義の実を結ばせる種を蒔く人にならせようとされているかもしれません。言葉に気を付けて、上からの知恵を求めて、生きてみようではありませんか。イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とマタイ5章9節で語っておられます。神の子ども呼ばれる特権に預かってみたいと願っています。
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